九代寺林彌二郎遺影之賛 元上段村大字日中の人寺林政次郎外孫垣崎憲道(母ツヤ長男)これを訳す。 林求居士(恐らく本人が使った雅号)は越中の人です。 代々受け継いだ郡の大名主でしたが、生まれつき風雅なことが好きな人で京都の儒学者とも付き合い詩や歌が大変に上手でした。ところが、ある朝のこと、突然に考えられないような事件になって罪人として捕まりました。牢屋に入れられてからは、疑いについて取り調べられ、それに対してお話し申しあげる日々が続きました。その最中に急に病気になり、しかも亡くなってしまいました。 罪の方では僅かばかり許されて、遺体だけは我が家に戻りましたので、家族の手によって葬式を済ませました。仏様としてのお名前は鼎山盛栄と申し上げております。 時は正に文政二己卯の閏年の夏、四月八日のことでした。死んだ時の年齢は五十六歳でした。息子として、年をとってからの父の姿を描き写して、これからの子孫が画を見ただけで、会ったことのない先祖のことが分かるように、出来る限り少しでも在りし日の容姿に近い画を描くように務めました。 ただ一途に父を慕い、心を込めて作成したものです。 最後に証しとして、下に添え書きの言葉を残しておきます。 ここは越中、日本海に沿った平地です。戦国の世が治まってから大変に長い時が過ぎました。領民をつなぎ文学をつなぎ、文学を正しくする方で文、質ともに備わっていました。 非難や、おべっかや、人を惑わすことが、どこかで、誰かによって企てられました。今までのことは全部が、一遍に変わってしまいました。 まるで泥田の中に、泥すきが群集したために身動きできなくなった時のように、誰もどうすることもできませんでした。そうして、そこで、父は命を落としてしまいました。 家族にとってあまりに突然の、悲しい嘆きになりました。 この善人であった父との、大変つらい別れでありました。 いま文政三年庚辰の年の正月です。 年をとってから、まるで野に咲く草花のように、けがれのない、清らかなお人だった父が、何事かを考えている絵姿が、ようやく出来上がりました。息子として、これほど嬉しいことはありません。 |
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