1500年 |
明応9年 |
金森斎宮生まれる |
1521年 |
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大畑家土岐氏に使える |
1524年 |
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金森長近生まれる |
1525年 |
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寺崎民部生まれる |
1534年 |
天文3年 |
越後の長尾為景が越中に攻め入り、大将為景討たれる |
1538年 |
天文7年 |
新右衛門仍久生まれる(飛騨高山) |
1541年 |
天文10年 |
江馬家 十四代 左宗ノ進家来寺林大蔵が諏訪城の出城である寺林城を構築 |
1542年 |
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金森長近 信長に仕える |
1543年 |
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神保長織 富山城築城 |
1544年 |
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飛州の兵乱起る |
1545年 |
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願海寺築城?(民部の父平左衛門行重) |
1547年 |
天文16年 |
金森斎宮、新右衛門 飛騨国寺林村(荘園)を離れて越中に入る
寺崎入道泰山をたより寄属 寺崎民部左衛門 (父)平左衛門行重(畠山義則の家臣)
(寺崎民部の知行12,000石) |
1550年 |
天文19年 |
越中に越後の長尾、甲斐の武田・飛騨の江馬氏等が侵入する
一方で加賀と手を組む越中の一向一揆も入り乱れていた
9月24日越中・越後の戦い 長尾謙信が寺崎入道泰山を滅ぼす
寒江村自得寺にて斎宮自刀(新右衛門17才) |
1552年 |
天文21年 |
橋下条赤田に移住、姓を寺林と改め平民となる
土岐頼芸 斉藤道三により滅ぶ
仍久(初代新右衛門・・田地高4,000石)
上杉謙信に組した、寺崎民部左衛門 天神林の戦いにて井田城主飯田利忠に勝利スル |
1560年 |
文禄3年 |
桶狭間の戦いあり、信長、今川義元を倒す |
1576年 |
天正4年 |
謙信、越中の大半を制圧、寺崎氏も属していた、天正5年七尾城を謙信落城させる |
1578年 |
天正6年 |
3月
謙信急死、寺崎氏に信長より朱印状、織田方につく(謙信の死後8ヶ月)
11月 神保長住(長職の子)を信長越中に送る、寺崎氏信長に属スル |
1581年 |
天正9年 |
2月
佐々成政が信長の命により越中へ分封
3月 上杉景勝が織田方小出城(富山城)を攻める、国侍寺崎、石黒、寺嶋、小嶋ら上杉に復帰の動きアリ
5月4日 織田方、願海寺城を攻める、民部左衛門、喜六郎(17才)父子をとらえ近江佐和山城へ送る(城主丹羽長秀)
6月11日 寺崎父子切腹(寺崎民部56才)(草野大学:家老切腹) |
1582年 |
天正10年 |
6月
本能寺の変 |
1583年 |
天正11年 |
佐々成政が帰負、新川両郡を持つ領主となる
新右衛門は成政より百姓横目を仰せつかる |
1585年 |
天正13年 |
佐々成政が豊臣秀吉に降伏して新しい領主に前田利家になる |
1588年 |
天正16年 |
富山城の前田家城代山崎氏が領内を派見した時に寺林新右衛門に百姓横目を勤めるよう仰せつけた |
1598年 |
慶長3年 |
加賀、能登、越中三国の領主前田利家が隠居し嫡子利長が加賀、越中の領主となる(利長37才、従三位中納言) |
1599年 |
慶長4年 |
利家が没した(62才) |
1603年 |
慶長8年 |
2月12日
徳川家康が江戸に幕府を開き征夷大将軍となる
7月14日寺林新右衛門66才で没ス |
1604年 |
慶長9年 |
十村制度 能登にはじまる |
1608年 |
慶長13年 |
金森長近没ス |
1613年 |
慶長18年 |
加賀藩は農政のため10ヶ村1租として村肝煎(キモイリ)を置く |
1615年 |
元和元年 |
大阪夏の陣が起こり豊臣氏滅ス |
1635年 |
寛永12年 |
寺林家に対して藩主の代役から十村役を勤めるよう訪があり、御扶持を頂く身分となった
二代 藤助は54才、倅の三代 瀬兵衛は33才であった |
1649年 |
慶安2年 |
杉本新町(出町)放生津新町 福野町創設 |
1653年 |
承応2年 |
大門新町創設 |
1655年 |
明暦元年 |
津沢町創設 |
1658年 |
万治元年 |
9月29日
下条組載許御扶持人十村 橋下条村 寺林瀬兵衛 新町設立を郡奉行に提出
12月 藩より承認許可 |
1659年 |
万治2年 |
2月
国君の命により 下条村寺林瀬兵衛方胤 二男長左衛門に
田地高700石を与え小杉新駅に分家(前田家本陣務める)・・・長左衛門家 |
1662年 |
寛文2年 |
小杉町が北陸道の指定宿駅となる |
1667年 |
寛文7年 |
1月
三代 瀬兵衛 十村を辞める
下条村十村は八右衛門(弟) 下条屋長左衛門小杉新町に転住 本陣となる
本陣(前口弐拾間余) 現在戸破加茂社の社務所 明治11年明治天皇休む |
1674年 |
延宝2年 |
8月2日
瀬兵衛「市被度仰村可被下」と藩に請願してから10数年後に叶って市場(2.5.8.12.15.18.22.25.28日)
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1677年 |
延宝5年 |
6月27日
三代 瀬兵衛死去 長寿院安斐慧閑居土 |
1683年 |
天和3年 |
四代 小右衛門 十社大神に絵馬 源平合戦の図 天尺岩戸々図を寄進スル |
1687年 |
貞享3年 |
小杉新町に下条村瀬兵衛 小右衛門の二男 八右衛門移住・・・子孫は町算用聞
射水郡山廻役に任ぜられた 宅は小杉小学校敷地 |
1691年 |
元禄4年 |
四代 瀬兵衛(小右衛門)長子 八三郎に田地高800石を与え分家 脇本陣とする(八左衛門家) |
1694年 |
元禄7年 |
下条薬勝寺に半鐘を寺林八右衛門、同伝左衛門寄進スル |
1698年 |
元禄11年 |
6月
五代 寺林八衛門方元薬勝寺に石灯籠 寄進スル |
1716年 |
享保元年 |
六代 寺林弥三兵衛、六ヶ用水の開掘責任者を命ぜられ、薬勝寺に祈祷依頼スル |
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(1716〜1735)
加賀藩 溜池(20ヶ所)を埋め立てその跡を田畑として黒河新材とスル その事の灌漑用水を作る |
1819年 |
文政2年 |
加賀藩 民政改革と称して、藩内十村28人を獄に下し之を能登島に流した
※能登島(七尾湾の中にある島)
8月 九代 寺林彌二郎獄死ス |
1821年 |
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藩、十村役を廃し、改めて郡奉行が直務した |
1839年 |
天保10年 |
藩、十村制度を復旧スル (明治3年廃止スル)
十村 加賀21人、能登23人、越中42人の計86人が十村として実在した |
1879年 |
明治12年 |
金森小右衛門、上新川郡下小泉村土肥均三郎の甥で絶家の康太郎を養子とする(十四代) |
1885年 |
明治18年 |
政重(嫡男)誕生、後に東京中野警察に勤める |
1887年 |
昭和20年 |
十五代 金森政重 山梨県北都留郡にて没ス
嫡男 金森嘉重家督を継ぐ |
1999年 |
平成11年 |
十六代 金森嘉重 千葉流山にて没ス |